帰国子女は苦労人
私がスイスの寄宿舎でインターン教師をしていたとき、出会った日本人の生徒は、なぜか全員が東京出身だったのです。なので、大阪出身の私は彼らと話をするとき、あえて共通語を使っていました。スイスという場所で、ひとりだけ(・・・やんか~)(・・・やねん)などと関西弁でしゃべることになんとなく違和感を覚えたからです。
別に気にしなければいいんですが、なんというか、関西弁は“合いの手”がないとしゃべりにくいんですよね。
だから、私はその寄宿舎では、わけのわからないスイス方言が飛び交う中で、外国人とは標準ドイツ語か英語を話し、日本人とはよそゆきの共通語を話す、という、まことに肩の凝りそうな言葉づかいをしておりました。(なんか、これだけでもストレスたまりそう・・・。)
まあ、それはさておき・・・私が学校で最初に出会った日本人の生徒は、当時18歳の女性Oさんでした。彼女は13歳からの約5年間をその学校で過ごし、既に東京の某有名私立大学への進学を決めていました。帰国子女が多いことで知られている大学らしいです。
私が会ったときは、英語もほぼ完璧に話し、スイスでの学校生活の最後を楽しんでいるように見えましたが、来た当時のOさんは環境になじむのに相当苦労していたようです。まじめでおとなしい性格の彼女は、思春期の頃にいきなり異文化にほうりこまれてパニック状態になったといいます。
これは、Oさんの生活面の指導をしてきたベテランのイギリス人女性から聞いたのですが、なんと、最初の2年間、彼女は人前で“ほとんどひとことも口をきかなかった”そうです。生徒の国籍が多様なインターナショナルスクールといっても、やはり主流は欧米人で、アジアの生徒は少数派になってしまいます。両者は言葉や考え方だけでなく、外見も違います。
子供たちは素直な反面、残酷なところもあるので、スイス人やアメリカ人の生徒の中には、アジア人というだけで軽くみて、それを露骨な言動に表す場合があります。当時のOさんにも、そうした点から相当の葛藤があったのではないでしょうか。私がOさんと過ごした期間は2ヶ月ほどだったので、あまり深いお話をする機会はありませんでした。
ただ、簡単には説明できないほどいろんな経験を乗り越えてきた、ということや、日本人としての常識や教養を身につけるため、漢字を覚えたり日本の新聞を読んだりする習慣をつけた、ということを雑談の中でぽつぽつと語ってくれました。
また、スイスのその寄宿舎は実技指導にも力を入れており、Oさんは音楽が好きだったので、バイオリンの上手なスイス人教師に個人指導を受けていたのです。その成果が実って、帰国後に入学した大学では、倍率の高いオーケストラ部に入部することができた、と後日、風のたよりに聞きました。
その後、彼女とは連絡をとっていませんが、何年か前に送られてきた同窓会名簿をみると、現住所がイギリスのロンドンになっていました。あちらで仕事をされているのか、留学中なのかわかりませんが、得意の英語を生かしてさらなる躍進を遂げているのが想像できます。
スイスでの5年間は、Oさんにとってその原点となる生活だったのでしょう。このOさんとの出会いは、(帰国子女っていいなあ・・・)なんていう、単純にうらやましがる感情を反省するきっかけとなりました。
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